カンボジアの大虐殺とは、ポルポト率いるクメールルージュというカンボジアの政治組織が中心となって引き起こした組織的な大虐殺のことです。
1975年から79年にかけて約300万人ともいわれる人々が犠牲になりました。
どうしてカンボジアの大虐殺は起こったのでしょうか。
この記事ではカンボジアの大虐殺がどうして起こったのかということについて調べてみました。
この記事を読めばカンボジアの大虐殺がどうして起こったのかがわかると思います。
この記事を読んで、カンボジアの大虐殺がどうして起こったのかがわかれば、カンボジアのことがより理解できるかなと思います。ぜひカンボジアを理解するための参考にしていただければ幸いです。
そもそもカンボジアの大虐殺とはなにか
そもそもカンボジアの大虐殺とは何なのでしょうか。
まずはカンボジアの大虐殺が何なのかということをみていきます。
カンボジアの大虐殺とは、クメールルージュという政治組織が中心となって1975年から1979年にかけて起こした、組織的な迫害、虐殺のことです。
この大虐殺により約300万人以上にのぼる人々が犠牲になりました。
クメールルージュによる組織的な迫害、虐殺
クメールルージュとは、赤いクメールという意味で、クメールというのはカンボジア人のことを意味します。赤は共産主義を表します。
パリへの留学中に共産主義の影響を受けたポルポトは、1951年に原始共産主義を掲げるクメール人民革命党に入党します。
クメール人民革命党は後にカンプチア共産党に改名しますが、このカンプチア共産党の中のポルポト派のことをクメールルージュといいます。
クメールルージュとは、ポルポトのように国費で留学して共産主義者になって帰ってきた者のことを国王シアヌークがクメールルージュ(赤いカンボジア人)と呼んだことに由来しています。
ポルポト率いるクメールルージュは原始共産主義を掲げ、この理想を達成するのに邪魔になる人々を大量に迫害、虐殺しました。
キリングフィールドでわかる大虐殺の残虐性
キリングフィールドとは、ポルポト政権下で大量の虐殺が行われた刑場のことです。
文字通り「虐殺の地」です。
キリングフィールドはカンボジアの中に何か所もありますが、最も有名なのはカンボジアの首都プノンペンのチュンエク村にあるものです。
クメールルージュに知識人などは反革命分子とみなされ処刑されます。それだけでなくその家族も、報復されないように殺害されたといいます。
女子供など関係なしに容赦なく処刑されました。しかもその処刑方法もかなり残虐なものだったといいます。
キリングフィールドの中にキリングツリーという場所があります。
「虐殺の木」いわれるこの場所では、赤ちゃんをこの木に叩きつけて殺したそうです。ちょっと理解できないほど残虐です。母親から無理やり引き離されて、母親の目の前で、この残虐な処刑が行われることもあったそうです。
しかし、伝えられている虐殺の残虐性に、耳を疑いますね。
殺されるだけでも理不尽で残酷な話なのに、その処刑方法まで、人間とは思えないほど残虐なのは、いくら時代の熱病にうなされていたとしても理解できるものではありませんね。
キリングフィールドの中にある記念塔の中には、たくさんの頭蓋骨が並べられて展示されています。全てここで処刑された人のものだということです。頭蓋骨の中に陥没したものがあるのは、銃弾がもったいないからと鍬で頭をたたき割られたからだということです。
知識人とみなされた者を次々に処刑
クメールルージュは、およそ知識人とみなされた人を次々と逮捕して地方に送り、強制労働させました。いわゆる知識人狩りです。
教師、医師などはもちろん、学生や専門家なども皆逮捕され、逆らう者反発する者は皆拷問されて殺されました。
知識人狩りはどんどん酷くなり、本を読んでいる、とか海外に行ったことがある、とか眼鏡をかけている、といったことだけで知識人とみなされて、たくさんの人が逮捕され収容所で強制労働をさせられ、多くの人が拷問を受けて殺されました。
クメールルージュはなぜ大虐殺をしたのか
ここまでみてきたように、カンボジアの大虐殺とは、想像を絶するほど残虐でしかも大量の殺戮が行われたということがわかります。
ポルポト率いるクメールルージュはなぜこのような大虐殺をおこなったのでしょうか。
ポルポトの理想とする農村社会主義社会を実現するため
それはポルポトが心酔した原始共産主義の理念によるものです。
原始共産主義とは、原始時代のように私有制の現れる前の、平等で格差のない社会を理想とする社会ですね。
ポルポトはこの原始共産主義の理念をもとにした、いわば農村社会主義社会を達成するために、この大虐殺を行ったといわれています。
どういうことでしょうか。
農村社会主義社会とは、カンボジアを農業によって外国に影響されない完全に自給自足の社会主義社会にする、ということです。
農民こそが最も偉く、そのために国民を農業だけに従事させカンボジアを農業のユートピアにしようとした、ということです。
ポルポトが農村社会主義社会に知識人はいらないと考えた
農村社会主義を実現するためには知識人が邪魔になります。なぜなら、知識人は反乱を企てるからだ、とポルポトは考えていたようです。
その意味で知識人は反乱分子ということになります。
知識があると、いろいろと余計なことを考えてしまい、愚直に農業だけをやってられなくなるということなんでしょうね。
つまり知識のある者がいると、農村社会主義は実現できないということになります。
また西洋の誘惑的で不健全な文化も排除しなければならないとも考えていたようです。
これらのため知識人と言われる学者や教師、医者、専門家は排除。つまり処刑です。そして、外国語を話せるも者や海外に行った経験のある者も排除、ということになります。
ポルポトは、マルクスやレーニンの影響を受けたため無神論者だといわれています。そのためクメールルージュにも無神論政策を指導しています。その結果、宗教も禁止されます。いわば宗教迫害です。仏教のほかキリスト教、イスラム教も抑圧されました。5万人もの仏教の僧も殺害されたと推定されているそうです。
共産主義には必要ないものとして貨幣も禁止。
もうやりたい放題です。
ポルポトはまた、中国で大勢に死者を出した毛沢東の文化大革命や大躍進政策にも大きな影響を受けています。邪魔者は徹底的に排除して恐怖によって民衆を支配しようとするスターリンのやり方も参考にしているようです。
カンボジアの大虐殺は、ポルポト率いるクメールルージュの原始共産主義、農村社会主義社会を実現することを理由におこなわれました。
その後
1979年、ベトナムの侵攻でポルポトの恐怖政治は終わりを告げます。
1997年、ポルポトはカンボジア政府との和解をしようとした腹心のソン・シンを裏切者として一族と共に殺害。そのことでクメールルージュに終身禁固刑を宣告され、その翌年の1998年に心臓発作で死去しました。
遺体は古タイヤと一緒に焼かれたそうです。
まとめ
というわけで、今回はカンボジアの大虐殺はなぜ起こったのか、ということについて調べてみました。
そもそもカンボジアの大虐殺とはなにか、ということについて
- クメールルージュによる組織的な迫害、虐殺
- キリングフィールドでわかる大虐殺の残虐性
- 知識人とみなされた者を次々に処刑
またクメールルージュはなぜ大虐殺をしたのか、について
- ポルポトの理想とする農村社会主義社会を実現するため
- ポルポトが農村社会主義社会に知識人はいらないと考えた
ということをお伝えしてきました。
カンボジアの大虐殺はなぜ行われたのか、というと、ポルポトが理想の社会と考える農村社会主義社会を目指すのに都合の悪い人々を排除するため、におこなわれたということになります。
今回は、やはりカンボジアの大虐殺ということを調べていくのに、かなり悲惨な情報がいろいろ出てきて、調べるのはちょっとしんどかったですね。想像を絶する数の人が殺されているというだけではなく、その残虐な処刑の方法などあまりに残酷で、思想があるとはいえ、人間がそこまで残酷に出来てしまうということにショックを受けましたね。しかもこれが、自国民同士でなされたということにもなんだか複雑な気持ちになります。
この記事でカンボジアの大虐殺がなぜ起こったのかについて、理解するのに参考になれば幸いです。
